9月3日付けの読売新聞社会面に,「悲鳴をあげる病院」なる記事がありました。急患のために行っている夜間診療に,緊迫した状況にない患者が我が物顔で診療を受けに来る,待ち時間が長いとキレて看護士に暴力を振るう,などなど。テレビを見れば,NHKの「クローズアップ現代」で最近増加傾向の「キレる中高年」を特集していました。例として紹介された事案は,通勤電車内。混み合う電車内に立っている真面目そうな中年男一人。男の立つ直前のソファに座っていた女子学生の携帯電話が鳴ります。電話を受けて話し始める女子学生。その様子を目をつり上げて見ている男。女子学生が電話を終えた瞬間,男が叫びます。
「おい,おまえ!電車内で携帯を使用しちゃあ,だめだろー!」 黙って男を見る女子学生。男は,さらに興奮した声で叫びます。 「なんだ,その目は!おまえは謝ることもできねーのか!みんな迷惑してんだよー!」 女子学生が言います。 「あなたの大声の方が,よっぽど迷惑です!」 男はますます興奮して叫びます。 「なんだ,このやろー。マナーも守れねえ小娘がー!」 女子学生が立ち,電車を降りようとするのを男は追いかけます。開いたドアから降りようとする女子学生の背中を男は両手に力をこめて,ドーン・・・。駅の構内に倒れる女子学生・・・ 今や,キレて事件を起こす数は30~50歳の中高年で増加の一途なのだそうです。 事例をいくつか見ると,「キレる」事件には,二種類あることに気づきます。 一つは,人の迷惑を考えず,自分の思うとおりに事が進まないとキレるというもの。もう一つは,正義を振りかざし,マナー違反する人を一切許せなくてキレるというもの。 この後者には,深く考えさせられるものがあります。教員の児童生徒への体罰も,後者に属するのではないでしょうか。「自分の考えは正義である」という思いが曲者ですね。正義を振りかざしつつ不正をするとなれば,それは悲しい哉,不正以外の何者でもありません。 時の中で忙しく前へ進もうとする現代の日本。社会全体のマナーの低下が巻き起こす数々の事件。 文化も科学も豊かさ,便利さ,快適さを追い続ける世の中で,「待つ」とか「耐える」とか「辛抱」することのできない人間が増加しているということでしょうか。これこそ,まさに「ゆとり」がないということではないでしょうか。 学校も「確かな学力を身につけさせる」ことを第一の命題として,「自主性を重んじる教育」から「詰め込み主義の教育」への回帰が,すでに始まっています。 昭和53年,「ゆとりと充実」に始まった「ゆとり」路線は,全てが間違いだった,失敗だった,という烙印を押されました。「教育の現代化」への批判から教育内容を削減して笑顔で登場した「ゆとり」です。今や,体中痣だらけ,悪者,罪人扱いです。 「確かな学力」は,確かに快適な響きです。しかし,確かなものとは測定可能なものでありましょう。そうだとすれば,記憶力,身に付いた知識・技能です。学ぶ意欲も関心も含むなどと言われても,それらは心情の世界のものであり,「確か」なものとして測定できるほど単純なものではありません。それらは「確かでない学力」と言うべきでしょう。 知識,技能を一方的にたたき込むのではなく,興味を持たせながら,意欲を高めながら,じっくりと身につけさせていくという,辛抱そのものの取り組みが教育だと思います。 今日は全く覚えられなかったものが,一年後にはすんなりと覚えられるということもあります。まあ,尻をたたくまねをしながら(本当に叩いたのでは体罰になってしましますから)「たたき込む」こともあっていいでしょうが,そんな時でさえ,教師の心の中には,「ゆとり」が欲しいものだと思います。 私たちは,時計の振り子のように揺れ動く施策や世の風潮の「ど真ん中」にどんと座り,じっくりと腰を据えて,右を見て,左を見て,慌てることなく,温かな眼差しで目の前の子どもたちに,質の高い教育を行いたいものです。 いつかまた,再生回帰して不死鳥の如く炎を燃やすであろう「ゆ鳥~ゆとり~」の飛び去る姿を「またね!」と微笑みをもって見送りながら。
by tan230
| 2007-09-10 08:50
| 教育
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友部丹人
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