<   2007年 11月 ( 2 )   > この月の画像一覧

マンガ字

最近はほとんど騒がれなくなりましたが,一時「マンガ文字」の蔓延を憂える記事やニュースが多くありました。最近はマンガ文字がなくなったというのではなく,さらに充実発展しているような気がしてなりません。
私たち教員も,かつては,ほとんどの教材を「手書き」で作っていましたが,今や,PCで作成すれば拡大も縮小も思いのまま,それなりに体制の整ったものができる時代となりました。
この秋,私は3つの授業研究会を参観しました。
水戸市立G小学校,石岡市立F小学校,小美玉市立O小学校です。
それぞれ,文部科学省委嘱研究,学校独自の研究,市教研指定研究と違いはありますが,先生方が工夫を凝らしてよい授業が展開されていました。
しかし,どの授業においても,「手書き」の少なさには問題あり,と思わざるを得ないものがありました。

まず,授業のはじめに提示する課題(課題を提示しない授業もありましたが・・・)がワープロ文字で,教師は貼るだけ。児童はそれをノートに写します。
ワープロ文字には,明朝体,ゴシック体に加えて,最近はホップ体もよく見るようになりました。
明朝体は活字の基本形です。ゴシックは強調する基本形です。ホップ体は,目に飛び込んでくる太さと,楽しくうきうきするような雰囲気をもっています。
ここで,注意しなければならないことは,これらは「活字」であるということです。
この3つの活字体の中で,最も書写体に近いものは「明朝体」です。これは,中国唐時代の書家「顔真卿(がんしんけい)」の楷書体をもとにして作られたものです。正方形の枠いっぱいに,横線を細く縦線を太く書くのが特徴で,小さく書いても大きく見えることから活字体に採用されたのです。
さて,活字体では書写体と形の違う点がいくつかあります。

「迎」は,しんにょうの形が違います。活字体では「うへ」となっています。
「持」は,旁の寺が違います。寺は上から二本目の横線を最も長く書くのです。(三本目を長くしても間違いではありませんが・・・)
「読」は,「ごんべん」に問題があります。短い横線を四本引いて口を書く形になってしまっています。最初は点であり,次の横線を左に張り出して長く書くのが書写体なのです。
「み」のホップ体は,悪い書き方の典型を示したような活字です。「み」はもとは「美」です。「み」の最初の横線は「美」の上部の点二つですから,左に寄らずに真中の上部に書くのがよいのです。

大人になれば,活字と書写体を無意識のうちに分けられますが,学校教育では段階を追って慣れさせていくという観点から,小学校の教科書は「書写体」で印刷されています。中学校の教科書は「明朝体」になります。
本校の先生方は,手書きが多いですね。とてもよいことだと思います。それは,書いた人の息づかいが聞こえるようだからです。形はあまりよくなくてもいいのです。そこには思いがあります。活字は整ってはいても,温かみとか勢いはありません。あくまで冷徹です。思いが籠められないのです。
黒板に書く文字,貼る文字は,できるだけ手書きにしたいものだという思いを強くした3つの参観でした。
[PR]
by tan230 | 2007-11-19 12:20 | 教育

「バカの壁」の壁

養老孟司氏のベストセラー「バカの壁」(2003年4月 新潮社)の第7章に次のような文章があります。

-------------------------------------
でもしか先生
教育の現場にいる人間が,極端なことをしないようにするために,結局のところ何もしないという状況に陥っているという現状があります。実際には,物凄く厳しい先生は,生徒に嫌がられるけれど,後になると必ず感謝される。それが仮に間違った教育をしても,少なくとも反面教師にはなりうるということになる。が,最近ではそんな厳しい先生はいなくなってきた。下手なことをして教育委員会やPTAに叩かれるよりは,何もしない方がマシ,となるからです。
反面教師になってもいい,嫌われてもいい,という信念が先生にない。なぜそうなったのか。今の教育というのは,子供そのものを考えているのではなくて,先生方は教頭の顔を見たり,校長の顔を見たり,PTAの顔を見たり,教育委員会の顔を見たり,果ては文部科学省の顔を見ている。子供に顔が向いていないということでしょう。
よく言われることですが,サラリーマンになってしまっているわけです。サラリーマンというのは,給料の出所に忠実な人であって,仕事に忠実なのではない。職人というのは,仕事に忠実じゃないと食えない。自分の作る作品に対して責任を持たなくてはいけない。
ところが,教育の結果の生徒は作品であるという意識が無くなった。教師は,サラリーマンの仕事になっちゃった。「でもしか先生」というのは,子供に顔が向いていなくて,給料の出所に対して顔が向いているということを皮肉に言った言葉です。職があればいい,給料さえもらえればいいんだと,そういうことで先生に「でも」なったか,先生に「しか」なれなかった。
そういう社会で,現に先生が子供に本気で面と向かって何かやろうとしたら大変なことになってしまう。その気持ちはわかる。親は文句を言うし,校長にも怒られるし,PTAも文句を言う。自分の信念に忠実なんてとてもできません。仕方ないから適当にやろうということでしょう。

---------------------------------------

養老氏は医学,特に解剖学が専門です。東大医学部教授をおつとめになった立派な先生ですが,上記の文章を読んで,皆さんはどんな感想を持たれますか?
この本は,養老氏ご本人の文章でない(独白したものを新潮社の編集部が文章化した)としても,私は,なんとも腹立たしい思いにかられるのです。今の教員は,「子供のことを考えずに,お上ばかりを見て,事なかれ主義の仕事をしている」と断定しています。最終段落には「現に先生が子供に本気で面と向かって何かやろうとしたら大変なことになってしまう。」とありますが,どんな大変なことが起こるというのでしょう。
養老氏は,この本の第1章で次のように述べているのを忘れたのでしょうか?


-----------------------------------------

知識と常識は違う
日本には,何かを「わかっている」のと雑多な知識が沢山ある,というのは別のものだということがわからない人が多すぎる。

現実とは何か
「わかる」ということについて考えを進めていくと,「そもそも現実とは何か」という問題に突き当たってきます。「わかっている」べき対象がどういうものなのか,ということです。ところが,誰一人として現実の詳細についてなんかわかってはいない。
たとえ何かの場に居合わせたとしてもわかってはいないし,記憶というものも極めてあやふやだというのは,私じゃなくても思い当たるところでしょう。
ところが,現代においては,そこまで自分たちが物を知らない,ということを疑う人がどんどんいなくなってしまった。皆が漫然と「自分たちは現実世界について大概のことを知っている」または「知ろうと思えば知ることができるのだ」と思ってしまっています。

-------------------------------------------


養老氏は,自分が,「物を知っていると思っているバカな人間の典型だ」と言いたいのでしょうか?
[PR]
by tan230 | 2007-11-09 12:20 | 教育